映画に見る広島

ヒロシマ・モナムール」は、1958年の広島が撮影されています。当時の原爆資料館平和記念公園の様子も写されています。その年に原爆の子の像が立てられました。人々がそこに集まっている様子が写されています。
この世界の片隅に」のアニメでは、戦前の広島の様子が描かれています。今の平和公園レストハウスが大正屋呉服店であったころ、そこは、にぎやかな繁華街でした。装飾的な街灯やトランプの飾り等によって当時の繁栄が偲ばれます。
そして、浦野すずさんが実家近くの江波山に上ってスケッチをするとき、目前は海で、埋め立てがされておらず、潮が引けば、草津まで歩いて渡れる様子が分かります。
浦野すずさんは、呉にお嫁に行き、その後の戦争の経過により、何度も空襲を受けます。灰が峰から、その麓の長ノ木町にも攻撃が繰り返されています。そして、海軍病院に義父を見舞ったとき、時限爆弾で姪の命を奪われ、自らも右手を失います。すずさんは、絵を描くことが好きで、右手で絵を描けないつらさに苦しみます。
そして、その後は、海の向こうの故郷の広島に原爆を見ることになります。家族を残しているのですが、もはや、悲しみも無感覚に近い絶望感を感じます。
東京物語」では、1953年の尾道が描かれています。東京に行った娘や息子を訪ね、途中では、大阪に住む二番目の息子とも会い、しかし、母親は、そのまま体を壊して亡くなってしまいます。葬儀に来た子供たちも、仕事があるからとそそくさに帰ってしまう、戦後の家族の在り方をしみじみ描いた映画です。広島市内ではありませんが、尾道備後弁が優しい映画です。

落ち込んだ日のできごと・・

ある日、私は、とても落ち込んだ。人は、こんなに悪意をもって行動できるのだと思い、悲しいというのか、腹立たしいというか・・でも、一番ぴったりくるのは、身体中の気が抜けて茫然としたというのがホントのところ。
そのとき、パセーラにいたのですが、30分ほど、この出来事について一緒にいた人と話し合い、なぜこんなことが起きたのか振り返っていました。でも、あれこれ考えても始まらないですね、今日は、ともかく帰りましょう、私はそう言って別れを告げましたた。

何だかすぐに帰る気にもなれず、ふらふらとさまよい、朝から何も食べていないので、ボッシュファーストに立ち寄り、ワッフルをいただきました。おいしいものを食べると少し気分がよくなる‥はずですが・・・相変わらず、ふらふら、脱力感があると思いました。

その後、まだまだ帰る気になれず、紀伊國屋で、茫然と本をにらみながら、何も当てがなく、ふと、今度お会いする予定のKさんの本を探そうと思いつきましたが、全部、在庫なしという状態でした。

脱力感はまだまだとれない。やはり少し休むべきだと、自宅に帰り、横になりました。うとうとと仮眠した後、やはり、Kさんの本を読まなきゃと思い、インターネットで、図書館検索をしました。県立図書館にあるという情報をたよりに、再び出かけることにしました。脱力感は、まだぬぐえないけれど、図書館に向けて出発しました。

途中で再び寄り道をしました。フタバ図書タリーズでお昼を食べ、もしかして、Kさんの本はここにあるかなと思いつき、探しました。すると、今度は「ある」ということでした。しかし、置いてあるはずの棚をどんなに探しても見つからず、15分くらい探した後に、カウンターに行って、「この本がないのですが」と尋ねました。すると、女性の店員さんが一生懸命探してくれましたが、やはりありません。私は、そばにあった別の本を読み始めました。すると、今度は、男性の店員さんがやってきて、目を周囲にめぐらしてました。そして、次の瞬間、その本の在りかを見つけ出し、私に本を差し出してくれました。

何と、すごい、さすがプロだと感動しました。その彼はにっこりとほほ笑んでいます。可愛い装丁の小さな文庫本は私の手の中です。
ついでに何冊かの本を買いました。

図書館に行く必要がなくなり、私は再び家に帰りました。夕食を何とか作って、食事して、入浴して。そして、再び、ぐったりして、休みました。

夢の中で、本の著者と語りました。哀しい物語、理不尽な行動への憤り、情けない生き方に対するもどかしさ。それらすべては、未来ある人への愛で包まれていました。

次の日の朝、目を覚ましたとき、脱力感がなくなり、Kさんとどんな話をしたらよいかと思いめぐらしていました。前日の落ち込みは、徐々に「あきらめ」となっていました。

悪意を感じた人との話し合いも続けなければなりません。様々な物事は、重層的に、同時に進んでいき、私を落ち込みから救い出してくれます。

ヴエネツィア展に行きました。

ひろしま美術館でヴェネツィア展をやっています。イタリアファンの私としては、やはり見逃すわけにいきません。サンマルコ広場の対岸のサンジョルジョマッジョーレ聖堂の絵が素敵でした。こちらでご覧ください。
http://www.nagoya-boston.or.jp/venezia/point.html
そして、一昨年、この場所を訪ねて撮った写真を添付しておきます



上の写真を見てもらったらわかると思いますが、サンマルコ広場は雨に濡れています。この日はまだましだったようですが、ひどい日は浸水するのだということです。海抜ゼロメートルなので仕方がありません。ゼロメートルを維持しながら、この世界遺産を守っていくのは大変なことだと思います。
対岸に、サンジョルジョマッジョーレ聖堂があります。もっと近くに行くと海に浮かんだような聖堂の雰囲気をもっとよく分かるのですが・・・。この聖堂は、ヴェネツイア展で見た絵と同じように清楚なすがすがしさを持っています。

真ん中の写真は、サンマルコ広場の鐘楼です。三角屋根の上には、金の天使ガブリエルがいます。鐘楼に登ると、もっと鳥瞰的な景色が広がります。

下の写真は、リアルト橋です。ホテルから迷路のような道をたどって見つけました。夜の散歩をしたのです。

ところで、ヴェネツィアでは、ガラスやレースの工房があり、職人が手作りで魔法のように作品を生み出しているのですが、同時に商業が栄えてきた町だと感じました。彼らは、商品の説明では日本語を流暢に操ります。
さらに印象的なのは、海産物に恵まれているのか、食事が大変おいしいのです。北イタリアでは、もっとも食事がおいしいところと感じました。

モネは晩年2か月ほどヴェネツイアを訪れたそうです。静養のために訪れたのですが、その美しさに感動したようです。もちろんイタリアでどこが気に入るかは人それぞれだろうと思います。私はヴェネツイアでは、一日しか過ごしていませんが、密度の高い一日だったと思います。そして、数日過ごしても飽きないと思います。
訪れるべきところは多く、また、味わうべき料理も多いと感じます。

映画「卒業」について

3月、京都に住むわが子の卒業式に行きました。最初に、「学歌斉唱」と読み上げられたとき、学生の間ではどよめきが起こったそうです。「学歌って何?」多くの学生がそのように思ったようなのです。娘に、「じゃあ、琵琶湖周航の歌は知っている?」「紅萌ゆる丘の花〜♪なら分かる?」と聞きましたが、「知らない」と。どうやら、最近の学生は、歌でつながったりはしないらしい。何だかさびしいなぁ・・・。

それから、山極総長が式辞を読まれました。潮見先生は「素晴らしい話」と称えられたそうなのですが、いつもながら、確かに、良いお話でした。ただ、それも、私たち世代にとってということになるのかも知れません。そうして、山極総長は、山極総長なりの誠意をもったお話をされたのだと思います。「大学は面白くなければならない」という持論のとおりで、大変うれしく感じたものです。

色々なお話をされ、それぞれ、懐かしい思いで聞いたのですが、その中で、映画「卒業」のお話があります。後で、娘に「式辞のお話は分かった?」と聞きましたら、「いや〜驚いた。卒業式に、不貞の話が出るとは!!」と言うのです。

そうか、確かに、不貞の話だったんだなぁと改めて思いました。私自身は、この映画を中学生の時に見たので、「不貞」という辺りはすっ飛ばして見たのですね。ただ、ベンジャミンが、式場で「エレーン」と叫ぶシーン、その後に、花嫁を奪って逃げていくシーンがやけに印象に残っています。そのような行動をした二人に向けられた社会の目は厳しく冷たいものだった、ということが、簡単に言うと、山極先生のお話だったわけですが、それを聞いて、娘は、「当たり前だよ。そんな不道徳なことをして、受け入れられるわけがないじゃない」という反応を示しました。

なるほどこれも然り。常識人の当然の反応ですね。しかし、これを聞いて、山極先生の言いたかった話とは、ちとずれるのではないかなぁと思いました。

山極先生は、恐らく、常識を打ち破るようなことをしようとしたとき、おそらく、みなさんの前に大きな壁が立ちはだかる、その壁にどう立ち向かっていくのか、考えてほしい、というようなテーマだったのではないかと思ったからです。

ま、それにしても、この卒業の後の話は、どうなるのでしょうね。
ベンがどれだけ、エレーンに惚れていたのか、今の私にはよく分かりません。また、逆にエレーンは、本当に、ベンで良かったのか、等々。

ただ、この映画が、忘れがたい映像を残してくれたことだけは確かです。
そして、山極総長が、「大学は面白くなければならない」という心意気を示してくださったことも確かだろうと思います。願わくば、そのメッセージが学生たちの心に届いてほしいものです。

愛は即物的・・・

ロマンチックな人は精神性を重視して、パートナーに対し、自分に精神的に尽くすことを求めたり、きちんとした生き方を求めたりする。そうしたことを求めることは、だれが聞いてもきわめて正当なのだと堂々と主張する。そして、パートナーがちゃんとしないからいけないと知らず知らずに攻撃している。ロマンチックがいけないというのではない。ロマンチックでありながら、自分も相手も、日々、消費する存在であるということを理解すべきなのだと思う。私もあなたも、彼も彼女も、夢の中で生きているのではなく、現実世界に生きている人間である。だから、愛も、やはり、即物的にならざるを得ない。

あるとき、ある裁判官は、尋問の中で、嘆息するように、ほとんどつぶやくように、質問した。
「あなたにとって、妻とは、なんなのですか」
それ以来、私も、時々、このような質問を投げかけることがある。
パートナーを非難したり攻撃したりする中で、ふと振り返ってほしいと思う。
「あなたにとって、彼女(もちろん「彼」でもいいのだけど)はいったいどういう存在なのですか」

自分が息をするように、自分がおいしいものを食べたいように、自分が気晴らしをしたいように、相手も、それが必要なのです。
あなたが疲れているとき、相手も疲れていると想像してみましょう。
「別れたくない」「大切な家族がそばにいることが仕事をする励みになる」
でも、相手の気持ちも考えてあげなければならないでしょう。
自分の気持ちを押し付けるのではなく、具体的に、相手が必要としていることを満たしていくことは、とても大事なことなのです。

この点では、仏教の「三施」という言葉が味わい深いと思うのです。三施とは、三つの布施ですが、一つは、「財施」で、財物を施すこと。食べ物の必要な人に食べ物を、衣服の必要な人に衣服を、睡眠が必要な人にはベッドを与えるということです。
二つ目は「法施」で、真理や正しいことを教え導くこと。「法施」は、大事なことだと思いますが、独りよがりなものではだめだと思います。自分勝手に正しく導いていると思ったら大間違いということはありえます。だれかが困っているときに、その人に、必要な知恵を授けて問題を解決してあげるということなのでしょう。
三つ目が一番難しく「無畏施」。人の心から畏れや不安を取り除くことだといいます。

三拍子そろえば、上出来ということになる。確かに、経済的には恵まれていても、決して幸せでないと感じる人もいるから、もちろん、愛も、ただ、即物的であれば良いというわけでもないのでしょう・・・。そばにいるだけでくつろげる、心が安まる、こんな魔法を使えるようになったら、本当に素晴らしいと思います。

いちじくとマルメロのお話

どこの民話だったか覚えていません。あるお百姓さんが、自分の畑のマルメロがたくさん実ったので、王様に献上しようと思い、持っていこうとしたところ、おかみさんが、「止めておきなさい。王様は、マルメロは固すぎて好まないでしょう。それよりイチジクがたくさんできているから、イチジクを持っておいき」と言いました。そこで、お百姓さんは、沢山のイチジクを王様に持っていきます。すると、王様は、持ってきたイチジクを一目見て、「なんだ、イチジクか」と思い、そのお百姓さんに向かって、イチジクを投げつけるのです。すると、イチジクをまともにぶつけられたお百姓さんは、「ありがたい」と言って頭を下げます。さらに、王様は、イチジクを投げつけますが、またしても、お百姓さんは、「ああ、ありがたい」と言って頭を下げます。続けて、王様は、面白がって、なおもイチジクを投げつけますが、投げつけるたびに、お百姓さんは「ああ、ありがたい。ありがたい」と言いながら頭を下げるのです。
最後に、王様はお百姓さんに聞きます。
「お前は、なぜ、イチジクの実を投げつけられるたびに、『ありがたい、ありがたい』と言うのか」と。

そうすると、お百姓さんは、「実は、王様、今朝、妻に『王様にマルメロを持っていこう』と話したのですが、妻は『マルメロなんか持って行くのは止めなさい。』と言って、イチジクを持たせたのです。もし、王様にマルメロをぶつけられたら、痛くて痛くて我慢できなかったでしょう。でも、賢い妻がイチジクを持っていきなさいと言ってくれたために、そこまで痛くありませんでした。いい妻を持ったなぁと思って、『ありがたい』と言ったのです」と言いました。

この後の話は、どうだったか覚えていないのですが、ふううん、と幼いながらも、このお百姓さんはとんでもない誤解をしているなぁ、マルメロを持って行っていたら、きっと投げつけられることはなかったのに、奥さんが、マルメロを持っていくのはもったないと思ったに違いない、この人はお人よしだなぁと思った記憶があります。

そのときは、マルメロという果物がどんな果物か全く知りませんでした。異国の果物で、きっと、とてつもなくおいしいんだろうと思っていました。

後になって、マルメロとは、花梨のことだと知りました。信州の花梨エキスを水や炭酸等で割って飲むととてもおいしいです。花梨ジュースを飲んだり、花梨を食べたりするたびに、この話を思い出します。

この人に惚れた!!

心に残る映画は色々ありますが、「この人に惚れた!!」という映画は3本あります。

一つは「ハンナ・アーレント」。話の筋や思想の問題はさて置くとして、周囲の人たちから激しく批判、攻撃され、「大学は辞めなさい」と言われながら、これに屈せず、学生たちを前に、教室で堂々と持論を展開した、あの迫力に、心底惚れました。勇気とは何か、と自問自答したことがありましたが、これこそ真の勇気だと感動したのです。

そして、もう一つは、「グレース・オブ・モナコ王妃の切り札」。私が感心したのは、ニコールキッドマンが美しいからではなく、モナコ王妃を演じる彼女のスピーチです。決して、その話がよどみないわけでもなく、気持ちが良いほど流れるようなものであるわけではないのに、その態度は、率直で誠意にあふれて、まごころがこもっていました。何の虚飾もありませんでした。だからこそ、説得力を持ったのです。マイクの前に進み出る途中、彼女は胸の鼓動を高く鳴り響かせながら、映画の場面は進みます。傍目には彼女が動じる様子は見えていないようですが、彼女の心の緊張は最高に高まっているのです。でも、マイクに向かえば、ゆっくりと自分の言いたいことを並み居る要人たちにきっちりと伝えるのです。言葉の力というより、心の力と言えばいいでしょうか。心から出る言葉こそ、相手の胸に届くのだと、この彼女の姿に、私は、やはり惚れました。
申し訳ないことに、話の筋には直接関係はしないとは思います。しかし、このように演じられたモナコ王妃の態度に私は感動しました。

そして、最後に、「黄金のアデーレ名画の帰還」に出てくるマリアです。ヘレン・ミレンという女優が演じるのですが、役柄というより、ヘレンミレンの所作や態度にとても惹かれました。年齢を経た味わいや深みというものをつくづく感じたのです。背筋をピンと伸ばして、スピーチする姿も力強いですが、それ以上に、黙っている時のその表情の奥深さや人生経験からくる余裕のようなものがとめどなく魅力的でした。

3人とも共通しているのは、その態度がとても堂々としていることです。人前で弱みを見せることがあったとしても、なおかつ、自分に対する信頼感を感じます。
「こんな人になりたい」そう思わせる人たちです。映画の筋ももちろんですが、彼女たちの一生懸命な生き方が、私の心に残りました。
願わくば、私も彼女たちのように、誠意をもって、自分の思いをきちんと伝えられるようでありたいと思います。決して無理することなく自分の心に正直に。