弥山に登る


日曜日、久々に弥山に登りました。紅葉谷公園から一時間半かかって、頂上に着きました。へとへとです。ヤワになったなぁと感じます。
何と言っても息が切れる!!一緒に登った娘が、確実に安定して登っているのを見て、強いなぁと感心してしまいました。
ところで、獅子岩と頂上の分岐点まで来て、そろそろ猿と出会うかなと思っていたのですが、全く見かけませんでした。鹿がいない、とか減ったとか聞いていましたが、そうか・・・猿もいなくなったのか、と少々さびしい思いも。
頂上からの景色、秀逸でした。こんなにきれいだったっけ、と思いました。さすがに日本三景だと納得です。海がとてもきれいです。
帰りは、軟弱にロープウェーで降りました。もう夕方で、最終便が近かったのに、結構な人が上がっているので、どうするのだろう、宿はないだろうに・・・と心配になってしまいました。ご年配の女性や赤ちゃんなどもいましたから。
そういえば、登り始めに、結婚式をされているカップルを二組見かけました。赤い打掛に文金高島田の愛らしい花嫁さんにりりしいはかま姿の青年が寄り添い、紅葉谷で写真撮影されてましたし、厳島神社には、白無垢の花嫁さんがしずしずと入っていきました。日本文化の奥ゆかしさをしみじみ感じました。
帰り着いて、駅の階段を下りたり上がったりするとき、娘が、「なんて歩きやすいの」とつぶやきました。全くそのとおりです。足取りがほんとに軽い!!弥山のごつごつしたあの石段を上がった身には、街の階段があまりにも楽と感じますね。
後の筋肉痛もなく、爽快な週明けを迎えました。年度末を迎える3月も頑張りたいです。

心に残る裁判

先日、高裁のある裁判官から、「この証拠を出せば事件の風向きが変わるのに・・・・と思うことがある」とつぶやきのような声を聴きました。
裁判官から「このような資料はありませんか」と聞かれることはある。そのような証拠によって、確かに風向きが変わることもあるのでしょう。
詳しい話を聞くことはできませんでしたが、本当にそのようなことがあったなら、「勝つべき事件を負けている」ということになってしまいます。
これは、もしかして、弁護過誤のような話になるでしょうか。

そんな話を聞いて、この27年、勝つべき事件を負けてしまったこともあり、逆に負けるはずの事件を勝ってしまったりしたことを回想しました。
そして、もう一つは、勝敗にかかわらず、正義が尽くされないことも多くあったことも苦い思いをもって思い出します。

負けるはずの事件を勝ってしまった場合には、大抵、高裁段階で是正されています。さすがに、こんな勝ち方はないと思う場合は、相手方ももちろん、裁判所にも、判決の間違いにすぐに気づきますので、負けたはずの控訴人の方が強い立場に立ち、勝った被控訴人の立場のこちらの方が、控訴人のような感覚になってしまいます。

一つの例として、金銭請求の事件がありました。具体的には、この請求権は消滅時効にかかっていないのに、裁判所は、時効消滅したと認定してしまったのです。
一審の時点で、原告も被告も、時効の点についてはほとんど言っておらず、ほぼ実体についての主張だけをし、実体について証拠調べをしていたのですが、裁判所は、実体については、ほとんどまったく触れていませんでした。長く裁判をしてきたのに、何も判断してくれていないのだなと感じてしまいました。
(すごく昔の事件なので、よく覚えていないのですが、確か、契約の有効性について争っていたと思います。)
実際には、裁判所は、民事事件については、当事者が主張していない事実を理由として判断できない。だから、こちらが、消滅時効を主張しない限り、裁判所が時効消滅を理由として債務がないということはできないはずです。
私は、時効援用の意思表示は一切していません。つまり、すでに時効で債権はありませんよ、ということは言わなかったです。
ただ、途中で、裁判官が、「時効についてはどうですか」と聞いてきたことがありました。
私自身は、時効ではないとわかっていましたが、裁判官に促されため、時効ではないけれども、「権利失効の原則」を書面に書いて提出しました。
権利失効の原則とは、権利者があまりに長く権利行使をせず、義務者がもはや債権行使はしないだろうと考えるであろう事態になった場合、信義誠実の原則から、もはや権利行使ができなくなるという原則です。もっとも、この原則が適用された場面を知りません。一応、書くだけ書きましょうというつもりで書きました。
裁判官は、しょうがないな、とこの主張をもって、時効の援用と善意に解釈したのでしょう。
高裁段階では、正しく、振り返って、もう一度一審手続きをやるようなつもりで、再度の証人尋問や書面のやりとりをしたような気がします。その後、こちらの言い分にも同情されて、ある程度の金額での和解となりました。
若いころに手掛けた不思議な事件です。

そのほかに、「勝つべき事件」かどうかは分かりませんが、「勝つだろう」と思った事件で負けて、驚いたこともあります。
これは、土地についての取得時効についての事件でした。
ある人が、自宅の隣で畑を長年耕作してきたのですが、あるとき、畑を宅地にして、もう一軒家を建てようとして、登記をとってみたということです。そうすると、その畑を自分のものだと思っていたのに、まったく別人の所有になっていたというのです。そこで、この人は、その別の方に、「私の土地があなたの名義になっているようなのですが・・・」と言いに行きました。すると、別の方は、ぎょっとされたようなのですが、登記を変えてくれることもなく、自分の土地だと主張するようになりました。
そこで、この人は相談に来られ、取得時効を原因とする移転登記を請求する訴訟を起こしました。訴訟中では、こちらが優勢と思いましたが、裁判所からは、和解を勧められ、その土地を半分ずつに分けることになりました。ただ、こちらの方が少し取り分が多く、60パーセント程度はこちらの所有にするということで話はまとまりそうでした。特に測量することもなく、現地でメジャーを持って、この辺にしましょうという、現在の裁判所では、やってくれないようなアバウトな和解です。そのメジャーで測るという作業には、裁判所は関与せず、当事者同士で行うことになりました。
当事者同士だったからか、数センチのところで、物別れになり、結局判決を出してもらうことになりました。ところが、これが、負けてしまったのですね。和解の話では、こちらの方が多めであったこともあり、「まさか負けるとは」と驚きました。
この判決は、後々まで、私の判決予測に影響を与えています。有利な和解の話があっても、必ずしも勝訴するわけではないのだと肝に銘じました。
高裁では、裁判官に、非常に良い解決案を提示していただきました。「取得時効の問題が終わった後にも、境界紛争が控えていますよ」という指摘でした。つまり、相手方名義となっている畑の範囲は、今まで考えているよりも、ずっと狭いのではないかということなのです。
そこで、問題を境界紛争に切り替え、当初の和解の話と同じ線引きの辺りに、境界を設定し、解決をしました。
この問題の畑の土地の隣の畑が、私の依頼者の土地であり、問題の畑が相手方の所有であれば、それぞれの境界がどこにあるのか、いずれ、問題になることは、確かでした。
このウルトラCの解決には脱帽でした。普段は、あまり信用していない裁判所ですが、この時ばかりは、感謝しました。
あっ、ウルトラCって、今の若い方には、分かりませんかね。。

マタハラ事件の取材を受けて

記者の皆さんが、よく、原告女性は喜んでいますか、感謝していますか、と聞かれることがあります。そのたび、私自身は、実は少し戸惑うのです。

なるほど、そうです。原告女性は喜んでおられます。そして、感謝もされていると思います。ただ、そういう言葉で言い表すと何か違和感があるのです。つまり、私の中では、そういう一言では表しがたい様々な感情があるように感じるからです。何も、そんなにもったいぶらなくてもいいではないかとも思われるかも知れませんが、「喜び」というときに、湧き立つような明るい喜びもあれば、心に染み入るような静かな喜びもあるだろうと思います。素直な喜びもあれば、もう少し複雑で説明しにくいけれども良いことには違いないと思う気持ちもあるでしょう。

そして、今回のケースについては、どちらかというと、後者のような気持ちのように思います。そして、嬉しいという気持ちだけでなく、何か苦い思いも含んでいる、そんな感情だと思うのです。

5年間かかったという事実は、つらかった思いを引きずっています。そのうえで、あきらめないで良かったのだという感情なのだと思うのです。

均等法違反事件について

平成22年から取り組んできた、世にマタハラ事件として有名になった事件が終わりそうです。
昨年、最高裁の判決が出て、「妊娠・出産を契機とする不利益取り扱いは原則として違法無効である」とされ、例外事由として二つの場合が挙げられました。広島高裁に差戻され、11月17日に判決が言い渡されました。逆転勝訴でした。そして、今日、被告側から、この判決について上告をしないというコメントが出されました。
差戻審では、被告である病院から、「原告には役職者としての適格性がない」「独善的で協調性がない」と言われ続け、苦しみ続けてきました。その闘いがようやく終わったのだと思います。
終わってみれば、これらの苦しみも忘れられそうな気がします。しかし、渦中にあるときは、やはり率直に苦しく、なぜ労働者同士で非難し続けるのかと悩みました。原告自身は「悲しく」「なぜ、どうして」という思いが強かったと言っています。
私は、労働者からの攻撃がいわれのないものと感じて、非難めいたことを言ったことがあります。すると、原告は、「私は同じ労働者を非難したくないです。皆追い詰められていると思うのです。結局同じ被害者なのではないでしょうか。」と言いました。
そして、私が、相手の病院に対しても厳しく批判したときには、このように答えていました。
「私は、10年以上この病院とともにあり、この病院とともに成長し、この病院に育てられてきました。今ある自分はこの病院あってのことだと思う。それだけに、なぜ、このような仕打ちを受けるのかわからないのです。ただ、悲しいです。私は、この病院を攻撃したいとか貶めたいとかいう気持ちは全くありません。長く勤めた病院で、やりがいも社会的意義も感じていた、いい病院だと思っていたのです。ですから、恨みでもなく、ただ、良くなってほしいという気持ちだけです。」
彼女は、とても複雑な思いを持っています。判決を一ページずつ読みながら思いを反芻し、一つずつ一つずつかみしめるように振り返っておられます。
差戻審での闘いはそれまでの訴訟活動の中でも最も苦しく相手方の必死の思いも伝わってきました。言葉というものの恐ろしさも感じました。人を傷つけるには、矢も鉄砲も要らないと痛感しました。一言の言葉で人間はどこまでも傷つきます。そして、その言葉が、かつて信頼し、ともに理想を追っていた仲間から発せられたものであれば、一層絶望的な気持ちになります。満身創痍といったらよいでしょうか。ぶれないように、精神的に強くなるように、冷静さを保つように、様々な苦難がありました。彼女は、「自殺したいという人の気持ちが少しは分かるようになった」と言いました。私自身は、こんなことを言われ続ければ発狂しかねないと思いました。
この訴訟を通じて救われるのは、彼女だけでなく、多くの女性であってほしいと願います。
妊娠出産をする女性たちが不利益取扱いを違法と主張するようなことは甘えでありわがままだと言われている方々もおられます。妊娠したり、妊娠によって軽い業務に就かせてもらっていること自体が事業主にとっては迷惑だと言われるのでしょう。しかし、それでは、女性たちは、妊娠すること自体を控えると思います。将来を担う子供が生まれない社会は、衰退するでしょう。活気のある社会を築くことはできません。そして、もう一つ言えば、私自身は、妊娠や子育ては、一つの意義ある体験として、仕事に対する面でも積極的に評価しても良いと思っています。
ですから、妊娠出産についての差別禁止について批判される方々に対しては、これを女性の甘えやわがままと受け止めるのではなく、だれもが安心して子を宿し育てることができる社会を作っていきませんか、と提案したいと思います。だれかの犠牲を強いるのではなく、様々な工夫をして、職場のだれかが妊娠したと聞けば、「おめでとう」と言って皆で喜びあえる社会でありたいものです。事業としてやっていけないというのであれば、たとえば、国に対して援助のための措置をとるように求めることを考えても良いのだと思っています。

最後に、この裁判について、声援を送ってくださった皆様に心からお礼を申し上げたいと思います。
本当にありがとうございました。 

トンニャットホテルを探す

ベトナム旅行のご報告のその2です。
私たちのグループの中には、帰国早々、北海道への研修旅行やスウェーデンへの視察旅行を控えていた人たちがおられました。帰国後まだぐったりしている私からすると、すごい体力だなと感心してしまいます。

ハノイでは、ぜひ行ってみたいところがいくつかありました。
1968年、松本清張が戦時のハノイを訪れ、書き残した場所を確認したいということが一つの動機です。

ロンビエン橋もその一つですが、清張が泊まったメトロポールホテル(当時の名前はトンニャットホテル)もその一つでした。このホテルについて書かれた記事で、最近、地下の防空壕があることに偶然気付いて、宿泊者限定で、防空壕を公開していると書かれていました。
宿泊と言っても、私たちが泊まったホテルの10倍程度の料金がかかり、格安料金が35000円というのですから、非常にお高いのです。もっとも、このホテルでは、日本語は通じるそうです。

その「最近」、「偶然」防空壕が見つかったという記述に私は驚いたのです。
清張の本は、1968(昭和43)年8月20日に出版されていますし、朝日新聞の記者も同行して、防空壕のことももちろん書かれています。
日本人でも、知ろうと思えば分かるそのようなことが、当のベトナムの中では伝えられていなかったということについて本当に不思議だと感じたのです。

1968年清張がこのホテルに泊まった時には、アメリカの作家であるメアリーマッカーシーや原爆投下後1ヶ月しない間に広島を訪れたというバーチェット氏も同じホテルに泊まっていたということです。

他にチャップリンがハネムーンで訪れたという話もあります。
一般には、こういう話の方がよく伝えられているようです。

ロンビエン橋を渡る

今年の8月28日、知人女性たち4名と共に、ベトナムハノイに旅立ちました。私にとっては初めてのハノイでしたが、3名の方は二度目ということでした。ハノイで見たことは沢山ありますが、今回ダメージがあったことは、お腹を壊したことです。これまでも数は少ないものの数回の海外旅行をしてきましたが、こんな風になったことは初めてでした。
原因について色々考えるのですが、まずは、食事の量が多すぎたのではないかということです。
他の皆さんは、比較的元気に過ごされていました。年齢的には私よりも上なのですが、みなさん、ベトナムの食事をしっかり楽しんでいらっしゃいました。
私も、フエ料理や鍋料理、ハノイ名物のブンチャーなど、とてもおいしかったのですが、しかし、何がいけなかったのか分かりませんが、・・・やられてしまいました。
旅行の3日目からは、絶食を心に決めましたが、4日目に日本語学校の学生さんたちをお訪ねしたときに、学生さんたちが料理して下さったと聞いて、少し口をつけてしまいました。5日目には帰国し、日本なら大丈夫だろうとドトールでいつものモーニングを食べたのがいけませんでした。それが、9月1日の朝でしたが、それから、今まで私のお腹は治りませんし、また、帰国してからは、夜になれば爆睡状態で、身体の隅々まで疲れていると感じています。
一体何が、ここまで私を疲れさせたのか、実は、さっぱり分かりません。東南アジアに旅立つ方がおられたら、どうぞご注意なさってください。ちなみに、帰国後に医者に行きましたら、最初はロペミンという強力な薬を処方されました。しかし、どうも、これでは治る気がしないとセカンドオピニオンを求めて、昨日、別の医師のところに行きました。その際には、チアトン、セレキノン、ビオラクチスという三つの薬をいただきました。何となく少しずつ治っている感じがします。

ハノイで泊まったのは、ヴィェット・ヴューというホテルで、ロスー通りにあります。通りには、LO SUという表示がされてあるので、分かりやすく、また、タクシーの運転手もロスーと言えばちゃんとホテルに連れてきてくれるので助かります。概してタクシーの運転手の方は親切な方が多かったです。また、普通はメーターで運賃を請求されますが、最初に交渉して定額で乗せていただくこともありました。具体的には、ノイバイ空港まで45キロくらいありますが、35万ドンと決められていました。わがグループは太っ腹で、40万ドンを支払い「釣りはいらない」と言ったので、きっとタクシーの運転手は喜んだことでしょう。

さて、ハノイの街並みですが、このホテルの近くにホアンキエム湖があり、また、その周囲に商店が散らばっています。湖の北側の旧市街をさらに北上すると、ホン河にかかってるロンビエン橋です。この橋は、1901年にフランスが建造したと言われています。ベトナム戦争の時には爆撃に遭いましたが、松本清張の「ハノイで見たこと」によると、船を横に並べる理屈で、箱型の鉄でできた特別な材料を浮かせ、その上に板を渡した「浮橋」を作り、その上を重量のあるトラックでも通れるようにしたと書かれています。私たちは、このホン河にかかっているロンビエン橋を歩いて渡りました。道幅は狭く、ようやくバイクが通れる道と一段高くなっているブロックを敷き詰めた歩道があります。人一人がようやく通れる幅ですし、真下は、大河が流れていて、ちょっとスリリングなところがありました。

途中に中州があり、下に降りる階段があり、降りていくと、広々としたバナナ畑でした。そこで、バナナの花はどんな形をしているのか、どんな形で実がなっていくのか、案内してくださった杉本さんに教えていただきました。

ホアンキエム湖には早朝散策をしたのですが、その時の様子は、またの機会に書いてみたいと思います。

ユニタール広島事務所について

今日は、ユニタール広島事務所の隈本所長がおいでになりました。
まだ広島県民や市民にとって認知度の低いユニタールをどうやって、地元の皆様に知っていただき、協働しながら活動をできるかという点に熱意を持っておられました。

ユニタール発足は、2003年ということですが、実は、私は、そのころ、ユニタールとのかかわりを少しだけですが持っていました。そのころ、私は、アフガニスタン人の方の事件を扱っていて、その関係もあって、アフガニスタンにも出向いて行ったのです。ユニタールには、政府にかかわっていくアフガニスタン人の皆さんが研修に来ておられていましたので、その方たちと交流するためにレセプションに出かけたこともあります。国連のアフガニスタン特別代表であったブラヒミ氏が来られていて、少しだけですが、お話したこともあったと思います。

2003年にアフガニスタンを訪問したことについてのお話もさせていただいたのですが、その時の体験はやはり得難い深い内容であったと思い返します。

そのころのアフガニスタン、カブールは、車がひしめき合い、交通整理もろくにできていない中で、クラクションの音が鳴り響いていました。道の両側には、崩れかかった家々が立ち並び、砂埃の中を茶色と灰色の景色の中を進みました。道は、砲弾の跡なのか、穴ぼこだらけでした。カブール川も乾いており、テレビ塔の丘には、家々がひしめいていましたし、アフシャールの廃墟の背後には、礫岩のようなごろごろした石の山でした。
テントに住んでいるという子供たちに手を引かれながら、頂上まで登りつめ、そこにあった四角の石造りの構造物を見て、「あれは何」と聞いたら、「あれはハナだよ」と答えられました。ハナというのは、家ということです。

唯一美しかったのは、カブール大学でした。カブール大学の構内で、学生たちに「あなたはダリ語の方がいい。英語は今一つ」等と軽口をたたかれながら、雑談をしたときには、宗教の違いはそれほど意識せず、語り合えるところもないではないと感じました。

夜は、昼間のスモッグのせいか星を見ることはできません。そして、夜だけ通じている電気を通してテレビ番組を見れるということが少し不思議でした。ケシュメシュという干しブドウやアーモンドを食べながら、モハンマドの末裔というサイードの方たちや日本から支援に来られた方々と冗談を言い合いながら夜は更けていきました。あ、その時の電燈の暗さは、そうですね、昔の懐中電灯くらいかと思います。

帰りにハプニングがあって、飛行機に乗せてもらえず、帰国を望んでいた私たちは、少々パニックに陥りました。色々な方法を考えましたが、結局、車で、ジャララバード経由でイスラマバードまで行くことになりました。帰途の景色は、自然にあふれて美しく、十分に観光資源となると感じました。地雷地域もあり、またいまだに戦車等が放置された場所も多くあり、戦争の爪痕は容赦なくありましたが・・・。

しかし、アフガン国内でも外歩きができ、国境まで車で行けたという点では、今よりもずっと治安が安定していたと思います。そして、何より無事に帰ってこれたという点は、もっともありがたいことでした。

その時、この訪問を調整していただいたのは、名古屋のサーベファタナさんでした。彼女の力は本当に大きいと思いますし、心から感謝しています。
私は、行く先々で、アフガンの復興が進んでいないことについて指摘していましたが、ファタナさんは、「アフガニスタンは23年間戦争をしてきたのです。そんなにいきなり、復興が進むわけがありません。今、ゆっくりと回復しつつあるのです」と言われていました。

ただ、あれから、12年経っても、なお、落ち着いておらず、危険はますます増していると感じています。それは何が原因なのか、民族間の憎悪の激しさもあると思います。また、周辺国の思惑もあるのかも知れません。

隈本さんは、アフガニスタンの積極面として、就学率や大統領選挙が何とか行われたことを挙げておられました。そんなことを聞きながら、それでも、治安という非常に大事な点が立ち遅れていることには懸念せざるを得ません。今日は、隈本さんの訪問を機に、久しぶりに、アフガニスタンの状況について、再度考え直すきっかけとなりました。

隈本さんは、ユニタールの任務として、アフガニスタンの研修だけでなく、南スーダンの問題を取り上げていました。民族の対立と共に宗教的にも、北はイスラム、南はキリスト系という違いがあるようです。教育面での遅れを解決することも課題の一つと言われます。

ユニタールが、知名度を挙げ、地元の皆さんにも親しまれる存在となることを私も願いたいと思います。そして、取り組まれている紛争地の課題が、私たちとどう関わっているのか、どう関わるべきなのか考えてみたいと思います。